舞台『アルカディア』と動物
2016年4月、於シアターコクーン、トム・ストッパード作、栗山民也演出の『アルカディア』を見てきました!
以下、ネタバレ満載の感想文。
あらすじ(シアターコクーン公式ホームページより)
http://www.bunkamura.co.jp/cocoon/lineup/16_arcadia.html
著名な詩人バイロンも長逗留している、19世紀の英国の豪奢な貴族の屋敷。
その屋敷の令嬢トマシナ・カヴァリー(趣里)は、住み込みの家庭教師セプティマス・ホッジ(井上芳雄)に付いて勉強中の早熟な少女。しかし、天才的な頭脳の持ち主の彼女の旺盛な好奇心には、年上のセプティマスも歯が立たない。
あるとき、屋敷の庭園の手直し用の設計図に、トマシナは何の気なしにある書き込みをしてしまう。
その何気ない悪戯書きは、約200年後の世界に大きな波紋を広げていく。
そして、約200年の時を経た現代。
同 じカヴァリー家の屋敷の同じ居間に、過去の屋敷や庭園、とりわけ残された書き込みのことを熱心に調べるベスト・セラー作家ハンナ(寺島しのぶ)の姿があっ た。そこに、バイロン研究家のバーナード(堤真一)が加わり、ライバル同士の研究競争が過熱!その争いは、カヴァリー家の末裔ヴァレンタイン(浦井健治)、クロエ(初音映莉子)兄妹を巻き込み、やがて…。
<ひとつの場所=同じ屋敷の同じ場所>を媒介として、繋がっていく二つの時代と人々。
それぞれの時代に生きる人々のドラマは、クライマックスへと加速度を増しながら展開していく。
19世紀のトマシナと家庭教師セプティマスの「歴史の中に消えていった過去」は、現代に復元されるのか?
現代の研究者バーナードとハンナを取り巻く人々の思惑、そして、2人が追究する真理への情熱は?
事前情報から「歴史と自然科学がテーマらしい。面白そう♡」なんて認識で見に行ったのですが、ふたを開けてみると、まがりなりにも<文学と動物>の研究をしている身としては必見の舞台でした。
ただし。プログラムを読んでみたり、軽く検索してみたりしたのですが、動物をキーワードに『アルカディア』を語っているものは全く発見できなかったので、この感想が少数意見であることは申し添えておきます。
あとプロットの基礎部分は、倒叙ものミステリに学んで作ってあったと思います。そこがまた面白かった。
最初から順番に振り返ってみます!
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私の記憶が正しければ、幕が開いて最初のセリフは13才の令嬢トマシナ「ねえ・・・肉欲って、何!?」、家庭教師セプティマス「肉欲とは・・・牛のヒレ肉にむしゃぶりつきたいと思う気持ちです!」みたいなものでした。
どストレートな性の質問と、話をそらす大人。しかも井上芳雄くんの美声で高らかに。会場、笑いが起きます。つかみはオッケー。
私の心にも笑いは起きていましたが、しかしそれ以上に「えええ。どしょっぱなからこのセリフ・・・動物が重大テーマの戯曲!?」という別の衝撃で顔の笑う暇がありませんでした。
その後のシーンでトマシナは、遠くから聞こえる狩猟の銃声、大人たちの楽しそうな声に、うずくまり両手で耳をふさぎ身体をこわばらせ、「あの人たち死んでも閻魔帳は必要ないわね。だって狩猟日記に全部書いてあるんだもの」みたいなことを言います。そして家庭教師が言います。「虐殺の記録!」
「虐殺」という言葉を使うとき、殺されるのは人間、というのが一般的な用法かと思います。でもこのセリフでは、殺されるのが動物になっている。そのギャップによって大げさな感じが生まれ、笑いも起こり得る場面だったと思います。でもその笑いはもしかしたら、人間の命と動物の命をまるで別物と考えているからこそ可能な、恐ろしい笑いかもしれない。そもそも「虐殺」という言葉が普通、人間に限って使われることがおかしいのかもしれない。
人間の命と動物の命を別々に考えず、連続して考えるというのは、有名どころで言えばピーター・シンガー『動物の解放』(原著1975)に見られる考え方です。こうした本では、人種的マイノリティ・女性・障害者・性的マイノリティなどにまつわる問題と、動物にまつわる問題が連続して捉えられています。
こうした問題を提起する「虐殺の記録!」というセリフ。
この時点で「うわーー明らかに動物が重要テーマの舞台だーー」と思いました。
でも、狩猟を楽しむ人たちに閻魔帳が必要ない=地獄行き即決定?って、あやうい発想で、たとえば屠場で働く人たちへの偏見・差別にも簡単に繋がりかねないものです。
すると別のシーンでは・・・ちょっとここ記憶があやふやなのですが!・・・家庭教師によって仕留められた?ウサギの死骸/死体が登場します。(たぶんぬいぐるみ。)
そして執事が現れて、トマシナの好物のウサギのパイを作りましょうねという話になる。トマシナ大喜び。おおトマシナよ、さっきうずくまり両手で耳をふさぎ身体をこわばらせていたおまえと、大喜びのおまえは矛盾しないのか。家庭教師よ、おまえは虐殺を告発した身で虐殺を実行するのか。
でもこうした矛盾って、けっこう多くの人が抱えているものだと思います。かくいう私もその一人。動物に関する問題意識と、毎日の自分の生活が、乖離してしまう。
ウサギのパイはイギリスの伝統料理なんですか?
ピーターラビットでもお父さんがパイになってるそうです。
舞台は、暗転によってトマシナたちの時代に場面転換するたびに狩猟の銃声がして「虐殺」を重低音として忘れさせない作りになっています。登場人物が亀を飼っていて、鶴は千年・亀は万年、時を駆ける少女ならぬ時を超える亀っていうこともあると思いますが、終始、観客が動物の存在を目にする作りになっていて、3時間のお芝居が終わったあと舞台に亀だけが残って、(亀もたぶん人形)
どう考えても、動物を意識しまくった戯曲だったと思います。
一方「肉欲」という言葉は、むしろ家庭教師が他人の妻とあんなコトやそんなコトをしたり・・・家庭教師がトマシナの母とあんなコトやそんなコトをしたり・・・という文脈でどんどん使われます。
セックスしたい肉。
食べたい肉。
「肉欲」という言葉の相反する二つの意味が、ドーンと最初から示される訳です。
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ちなみに事前情報からは予想もしていませんでしたが、主人公は趣里さん演じる少女・トマシナで、その相手役が芳雄くん演じる家庭教師・セプティマス、としか思えない舞台でした。
趣里さん、25才だそうです。ちゃんと13~16才に見えた。役者さんてすごひ。
トマシナは家庭教師から課題として(?)フェルマーの定理を与えられます。私にはちんぷんかんぷんですが、あの有名なフェルマーの定理です。トマシナはフェルマーの書いたことを理解でき、さらに批判の目、ユーモアの心をもってこれに対峙できるという物凄い13才です。しかし活発で好奇心旺盛で悪戯心あふれる、どこにでもいそうな13才でもあります。
トマシナには及ばないものの家庭教師も素晴らしい知性と学識の持ち主で、だからこそ、彼は彼女の唯一にして最大の理解者です。女が賢すぎてはダメよ♡というノリのトマシナの母とは対照的なキャラクター造形です。 家庭教師は、時にトマシナが示す考えに畏敬の念さえ抱きながら、まだたった13才の彼女に対し大人として接することもできます。そんな家庭教師をトマシナもとても気に入っています。
この二人の関係が(^o^) ラブすぎて!!
私の目はハートに~~(うっとり)
そんなこんなをよそに、トマシナたちのいる過去と200年後の現代、2つの時間の行ったり来たりが始まります。
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ここからがミステリーでした!
現代の研究者たちが、残された資料から200年前のあれこれを明らかにしようとします。
研究者が知りたがっていることを、時に、観客はすでに舞台の上に見ています。だから「ちがうよ!200年前そんなことは起こらなかったよ!しっかりしてww」とか「そうそうそうそうwwあってるよ!」とか思いながら彼らを見守ることになります。
このあたり、倒叙ものミステリ(刑事コロンボとか古畑任三郎とか)にそっくりな作りだなー、と思いました。冒頭で視聴者にだけ犯人が分かっちゃうミステリのことです。
倒叙ものってコメディと相性抜群なんですよねきっと。むかし大学の講義で、コメディ(?)喜劇(?)というのは、登場人物より観客が多くの情報を知り得て優位にあることが基本となる、みたいなことを習った記憶があります。
そして研究者たちは、時に、観客もまだ知らな い200年前に起こった出来事を明らかにしようとします。こうなるともう、固唾を呑んで見守る先の読めない正統派ミステリです。
「え・・・あのときあの研究者がジョークで言ったことが、本当だったんだ」と観客に分かる場面もあります。しかし研究者本人にそれは分からない。観客に対して情報を先に見せるか後出しにするかで、笑いとシリアスをコントロールしてしまうんですから、これはまあすごい手腕だなあと思いました。
先ほど、暗転によって過去に場面転換するたびに銃声が、という話を動物に絡めて書きましたが、この銃声はミステリのミスリードにもなっていて、決闘の銃声かと思ったら狩猟の銃声だったのか!となる場面もありました。芸が細かい。
ひよっこですが、私もいちおう、約100年前のテキストを対象に研究をしているので、研究者たちの喜怒哀楽には身につまされるものがありました・・・(T-T)
観客は、歴史研究という行為を神さまの目線で疑似体験する。
そんな舞台になってたと思います。
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しかーし、クライマックスにむけて、ここで大きな出来事が起こります。
以下ちょっと、私が学部時代に勉強した自然科学のことを書いてみます。
物理学の世界は大きく言って、ニュートン力学が支配した時代と、そこから全く新しい局面を迎えたアインシュタインに代表される時代に分かれます。
そしてアインシュタインばかりが偉大だった訳ではなく、その前夜として、多くの科学者たちの様々な仕事があった訳で、たとえば電磁気学とか統計力学とかがある訳ですが、もうひとつ、熱力学がある訳です。
アニメ『魔法少女まどか☆マギカ』でも有名になった(?)エントロピーの話です。
以下、磯直道『科学思想史入門』(東京教学社、1993)より引用。ちょっと古い本かもしれませんが、私の愛用の教科書なので! 下線は私が引きました。
読みとばしも可。
・・・ これを契機として,熱をすべて仕事に変えることはできないこと、そして自然現象は乱雑な方向に進むという熱力学第二法則が,クラジウス(R. Clausius 1822~1888 ドイツ)とケルヴィン(Lord Kelvin : W. Thomson 1824~1907 イギリス)によって,独自に確立された.
熱力学第二法則の中で乱雑さはエントロピーという状態量で測られる.したがって,熱力学第二法則はエントロピー増大の法則ともいわれる.これによれば生物体は一定の秩序があるので生物はいずれは死をむかえることになり,また宇宙も全く無秩序な状態となる終わりがあることになる.このような結論は人々の思想に大きく影響した。
これを踏まえて。
なんとトマシナは天才すぎて、上記の考え方に自力で到達してしまいます!
(ちなみにトマシナ成長しまして、このとき16才になりました)
【追記】 熱力学第二法則のイギリスの確立者、ケルヴィン(Lord Kelvin : W. Thomson 1824~1907)の名前トムソンThomsonとトマシナThomasinaって似てるから、もじってるのかも(^.^) 本場イギリスの観客ならすぐに分かるのかも。日本だったら、野口英子、北里柴子、湯川秀子みたいな。
家庭教師は一人の学者として驚愕します。やがて宇宙に終わりが訪れるなんて。信じられない、と。
真夜中、トマシナは家庭教師の元を訪れます。昼間からの話題の続きで、ワルツの踊り方を教えて!とせがみにきたのです。しかし家庭教師はまだ、蝋燭の灯りでトマシナの理論を読んでいました。
セリフや演出で表わされていたかどうか私には分からなかったのですが、生命には死、宇宙にも死があるのなら、何のために今までさんざん歴史を・・・?という問いも自然と立ち上がっていたように思います。
家庭教師は(うろおぼえですが)こんなセリフを言います。
「やがて宇宙も終わるというのならば、私たちは一体どうすればいいんだ・・・?」
トマシナは笑顔で答えます。
「それなら、ワルツを踊ればいいじゃない!」
上の方で書いたとおり、「肉欲」はキーワードでした。
トマシナは家庭教師にキスをします。部屋に行かない?とも。それはできません、と家庭教師。それじゃあやっぱりワルツを教えて、とトマシナ。このやりとり、全部が「肉欲」です。
しかもこの戯曲における肉欲というのは、生殖につながるかどうかを問題としない肉欲だったと思います。肉欲の結果は、資料にも遺伝子にも残らないことが多々。しかし私たちは、限られた生命、限られた宇宙の中で、何もあとに残さず、キスをしたり肌を合わせたりワルツを踊ったりして生きて死ぬ。それを笑顔で肯定するトマシナ。
子どもを持たない一生を送る多くの人にとっても安心して見られる舞台で、そういう意味ではクィアな舞台だったとも思います。
そしてセックスしたい肉、食べたい肉という、コインの裏表の関係がここで繋がります。
私たちは、限られた生命、限られた宇宙の中で、何もあとに残さず、虐殺にさらされ、ワルツを踊ることもなく生きて死ぬことだってあるのだと。
ふたりの静かな静かなワルツで舞台は幕を下ろします。
エロスと、かなしいほどの優しさを湛えた長い長いワルツでした。私は、「ワルツを踊ればいいじゃない」というトマシナの笑顔から泣きどおしでした(T-T) 人間賛歌一辺倒だとなかなか感情移入しきれないんですが、この舞台では、人間賛歌という光に対する<影>が無視されてはいませんでした。
虐殺を少しでも減らすために歴史を知ることは不可欠だと個人的には思っているので、そう考えると、この戯曲は「歴史」「自然科学」「動物」「肉欲」すべてのテーマが最後に繋がる作りになっていたように思います。
トマシナと家庭教師のその後を観客は見届けることができませんが、実は200年後の研究者たちによって、そのへんはある程度明らかにされていて、その内容を思うと・・・おおおおおおおおおお・・・おおおおおおおおお(ToT)
ラブストーリーでした・・・
トマシナと家庭教師ばかりに重点を置いて書いてしまいましたが、200年後の研究者たちに重点を置けばまた違った見え方があると思います。
ほかにも、イギリス式庭園、ゴシック、マニエリスム、
あとは、狩猟の銃声と決闘の銃声、時を超える亀と動物としての亀もそうですが、ニュートンのりんごとエデンのりんごも重なっていました。そういうのが本当にたくさんあって、ひとつのセリフ、ひとつの演出に必ずといっていいほど二つの意味がある、極めて重層的な舞台でした。